価値観で埋められないモノ

 自分の価値観というのは、何かの前提のもと積み上げられるモノだと思っています。
 信仰、法律、物理法則、その他のルール
 これら、一般に前提とされるものを元にして、善悪という考え方をもって価値観を積み上げていくとすると、おのずと、他人との価値観の違いに葛藤するわけです。このときに、他人の価値観が許容、理解、譲歩できない理由として、「価値観がお互いに違うから仕方ない。」といった言葉でその場を済ませることが多々あります。私はいつもこの発言に疑問を覚えながら、特に面倒なことはしたくないので、スルーしています。
 普段はあまり意識しないでしょう。身近な人間は、前提を共有していると思い込んでいるから。これは、大方正解ですが、稀にそうはならないのです。前提にずれがあれば、価値観の理解がどれほど困難なのかは、容易に分かります。
 世界が広がれば広がるほどに、その前提が異なる場合があり、そしてそれらとどう付き合っていくかが、他人とのコミュニケーションを図る上で必須になってくると考えます。
 しかし、社会的には個人的価値観というモノをインタフェースとしてコミュニケーションを図るわけです。
 価値観の譲歩というのは、それほど難しい課題ではないかもしれませんが、その前提に置かれるものは、覆し様の無いものだと考える方が妥当でしょう。

 だから、春休みのバイトはお断りしたいと思うんです。
 って言ったら、先生は許してくれるかな。