考えるとは何か?

「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。
 こういうのは、僕の場合「考えた」とはいわないのである。

こういう風に言われると、「あ〜確かにそうだな。」と苦笑したくなる。
僕も例外にもれずこの学生と同じで、考えてる気分になっていて、結局のところ考えてないのかもしれない。頭の中で考えている間は、考えているということにはならず、というか考えているということが伝わらず、ただCPUを空回りさせているだけになってしまう。
考えているというもの形にするときには、その思考過程を書き出してみたり、どんなにダメだと思う案も形にしてみることが大切なのかもしれない。
考えるというのは行動だが、行動では人の目には見えない。だから結果が必要だけど、完全な結果でないと結果にはならないと思ってしまうことが多い。その結果考えてないという風につけろんずけるのもうなづける。
考えたけど、案はない。悪い案なんて忘れてしまったよといいたくなるわけである。
まあ、学生の良いわけとしか取られないだろうケド。
思考っていうのは、形にしないと分からないということを伝えてあげないと学生も分からないのではないだろうか。